篠山の歴史を知る「篠山町75年史」ー「交通・通信(交通・運輸)」

人力車

汽車も自動車も、自転車さえもなかった明治初年の交通機関として、唯一つのものは人力車であった。
明治6年、7年頃、京口橋詰に2台の人力車が出来たのが、篠山町での始めであるが、当時の車はまだ極めて原始的なもので、明治12年頃、ようやく車輪に輸鐶をつらぬき、明治17年前後にやっと泥よけをつけた程度のものであった。
明治19年に「篠山人力会社」というものが出来て、唯一の交通機関として利用されていたが、後その会社はなくなり、町内の要所数ヶ所に「人力帖場」(駐車場)を設けてそこに人力車を駐在せしめることとなった。挽子の服装は一定していなかったが、だいたい饅頭笠に法被といった姿であった。
車輪は鉄輪であるため、ガラガラ音をたてて頗る威勢のよい(?)ものであったが、大正時代にはいって、鉄輪が固ゴムになり、更にタイヤに代って、音のしない人力車として珍しがられた。
当時「篠山人力車営業組合事務所」というのがあり、大正初年頃、賃金一里につき昼間35銭、夜間42銭に協定されていた。
「街道をゴム輪の通る世の進み」という句がある。
当時、阪鶴鉄道(今の福知山線)の篠山駅(今の篠山口駅)と篠山町間の交通は、専らこの人力車が独占し、一時は約40台に達していたのであるが、自動車の出現(大正7年)に伴い、次第に圧倒されて日に日に影を沒し、大正末期には僅かに町医者のお抱えとして名残りを留め、昭和5年末には自家用車2台を残すのみとなり、その後まもなく全く姿を消して、今では篠山町では見ることが出来なくなった。
 

乗合馬車

ププーッと悠長なラッパを吹きながら、馭者が引きしめる手綱に、馬蹄の音高く走る乗合馬車が、篠山町にはじめて出現したのは明治30年頃であった。
旧城埋門(裏門)を西へ下りた附近に駐車場があって、弁天(今の篠山口駅)篠山間、或は篠山、福住間に用いられ、人力車とともに町の重要な交通機関として存在していたが、篠山軽便鉄道の開通(大正4年)と共に自然に利用者が減り、自動車が出現してからは(大正7年)愈々経営困難となり、大正9年7月26日、別に高等乗合馬車というのが出来てこれに対抗したが及ばず、間も完全に跡を絶ってしまった。
 

自転車

篠山町にはじめて自転車が姿をみせたのは、明治26年、27年頃である。当時の自転車は前輪が頗る大きく、後輪は小さく、チェーンなく、ペタルは直接車軸についておる俗にだるま形と称するものであり、車輪は鉄輪であった。篠山町でこれに試乗したのが羽室庸之助と佐谷又十郎であった。
後、次第に改良されたものが移入せられ、明治30年に団野源三郎が始めてゴム輪の舶来車に乗って篠山町内を疾走し、人々の注目を浴びた。以来約60年、今日自動自転車の出現と共にその普及発達は全く隔世の感がある。
 

汽車

福知山線(元、阪鶴鉄道)
今の福知山線は始め阪鶴鉄道と称して、阪鶴鉄道株式会社の経営になり、その三田、弁天(今の篠山口駅)間は明治32年3月25日竣工、弁天、柏原間は同年5月25日に開通した。
当時、阪鶴鉄道は、篠山町へ迂回して西町南方に近く停車場を設置する計画であったのが、土地売収に際し、一部に反対の声強く、又一方、それとは別に政府の予定線であった京姫鉄道(京都‐園部‐篠山‐姫路)が篠山町を通過すれば、それ以外に篠山に停車場を設ける必要なしとの意見も出て、そのためついに予定は変更されて線路は遠く現在の篠山口を通過することとなってしまった。
その後、京姫鉄道は立消えとなり、篠山町としては千載一隅の好機を逸したわけである。
かくて、5粁も隔たった弁天に、名のみの篠山駅が設置された。その後、阪鶴鉄道は明治40年8月1日、政府に買収せられて国有となり、山陰本線の全通とともに福知山線と改称、その後昭和19年4月、支線篠山線が出来ると同時に「篠山駅」を「篠山口駅」と改称せられた。
昭和26年11月25日には、福知山線に始めて急行列車(東京行「いずも」)が運転され、大東京と丹波篠山が直結されるという鉄道開通当初は夢にも考えなかったことが実現し、続いて昭和29年5月15日から待望のジーゼルカーが登場してトンネル地帯も煤煙を知らぬ快適な旅行が出来るようになった。
 
篠山鉄道(元、篠山軽便鉄道、昭和19年廃止)
大正4年までは、弁天(今の篠山口駅)篠山間約5粁は、徒歩するか、或は人力車か馬車に乗る外なく、貨物は牛馬車で一時間以上を費して運搬していたのである。
兵営設置(明治41年)以来、軍事上からみても、この弁天、篠山間の鉄道敷設はしきりに問題に上ったのであるが、明治43年12月、坊ヶ内安治郎外6名が発起人となり、軽便鉄道の敷設を申請して、大正2年4月27日、篠山軽便鉄道株式会社を創立、大正3年4月20日起エ、翌4年9月竣エ、9月12日営業を開始し、この日から永年懸案の篠山、弁天間に、小さいながらも汽車が運転されることとなった。(この費用総額111,672円25銭5厘)
開通当時は、乾新町(当時の憲兵分隊、今の専売公社の南)に仮停車場があり、ここから弁天までの乗車賃が8銭であった。軌道は28ポンドの細いもので、恐らく日本一の小さい機関車(明治5年東京-横浜間を走ったものと同型)が客車、貨車各々2輌を引いて走った。誰いうとなくマッチ箱という愛称がついていた。省線篠山駅の側に、別に「弁天駅」を設けてそこまで運転していたが、大正7年1月15日から篠山駅を共同使用することとなり、貨客の連絡が便利になった。
大正10年、岡野駅(今の渡瀬橋の東北にあった)附近から線路を南へ迂回させて西町駅を設け、更に濠端へ出て鳳鳴中学校(今の篠高)の南を濠に沿うて進み、楽天座裏に中央停車場「篠山町駅」を設けて終点とし、その年の2月14日移転、翌日営業を開始した。同時に軌道を40ポンドに取替え、大正14年11月18日「篠山軽便鉄道」の名称を「篠山鉄道」と改称、昭和2年4月には全線を省線同様60ポンドに取替え、新たに12輛牽引の20噸機関車を購入して、省線の大型貨車をそのまま引入れることとし、面目を一新した。
次いで、昭和11年ガソリンカー2輛を購入、西濠端の北端に「魚の棚」停留所を新設、更に5月には33噸の機関車を購入、かくて、その頃次第に登場してきた自動車と共に篠山、弁天間の重要交通機関として活躍、ことに戦時中は、多くの将兵輸送の任に当ったのであるが、昭和19年3月21日、国鉄篠山線(篠山口‐福住)の新設と共に廃線となり、爾来専ら自動車がこれに代ることとなった。
 
篠山線(国鉄)
【沿革】
明治25年頃、京都から篠山を経て、姫路に通ずる京姫鉄道が計画されたことがあった。当時の予定線をみると、園部から福住、日置、篠山を経て、真南条より古市、今田を通過することになっていた。この路線は交通運輸上は勿論、軍事的にも本州を東西に結ぶ線として頗る重要なものであったが、財政不況のため遂に取止めとなり、一方篠山町を通過する筈であった阪鶴鉄道(今の福知山線)も別記の通り、遠く味間村弁天(篠山口)を通過し、ここに篠山町は遂に鉄道に恵まれぬこととなった。
以来篠山町はもとより、特に郡東方面では交通の不便を痛感し、園部、篠山間を結ぶ「園篠鉄道」の建設を計画し、その目的達成のた屢々政府に請願し、福住村出身代議士山川賴三郎等の努力により、百方苦心をかさねること多年、幾多の曲折を経て昭和3年政府の新設確定線に入り、昭和6年度より起工することとなり、年度割も決定したが、第58議会で又もや起工繰延となり、ここに園篠線は再び立消えの形となった。
昭和9年に至り、その代償として省営園篠自動車が開通したがあくまで鉄道敷設の念願を捨てず、その請願を継続した。
 
【篠山線】
大東亜戦争勃発して戦局愈々重大となるや、遂に永年の宿願が達し、国防上、京都、姫路間の幹線に対する回避線として、且つは全国産額の5割を占める多紀郡の硅石の輸送線として、昭和17年愈々園部、篠山(弁天)間の鉄道敷設が決定、廃線となった有馬線を転用して10月着工、あらゆる悪条件を克服して昭和19年3月21日、その第1期工事篠山(弁天)福住間が完成開通し、篠山線と命名、翌4月1日より営業を開始した。
従来の篠山駅(弁天)を篠山口と改称し、新たに城南村北に篠山駅が設置されたが、この駅はやはり篠山町の中心を去ることはるかに遠く、そのため利用者は少なく、且つその後財政上、福住以東の工事が中止されたままとなっているので、本来の目的たる園篠線の使命が達せられず、福住以東は専ら国鉄バスにより、僅かに旅客の輸送をしている状態である。
その後、これが完成の促進を期し、昭和29年11月、早急に篠山線の園部までの延長を出願中である。
 

自動車

鉄道に恵まれぬ篠山町では、現在国鉄バスと神姫バスが郡内主要道路に交通網を敷いて、重要な交通機関となっている。
 
【沿革】
篠山軽便鉄道が開通してまもない大正6年5月、篠山町足立辰次郎、畑村佐古田廣吉等が「南丹自動車株式会社」を創設し、自動車3台を運転して福住、篠山、弁天(今の篠山口)間の乗合営業を開始したのが篠山町での自動車の始である。
最初は篠山軽便鉄道会社の強力な圧迫にあい、その上、自動車はまだ極めて幼稚なもので、始動機をかけるのに京口橋北詰の坂道を利用して後から押して動かしたという話もあり、又その後ブレーキの不完全から転覆大破したことなどもあって、経営頗る困難を極めたことは、大正8年4月、南丹自動車会社の新聞広告中に「自動車は決して危険なものではありません。乗り心地のよい軽快至便なものです」と客寄せに大童であったことによっても想像され、まことに今昔の感に堪えない。その後この会社経営難の為完全に行詰まった。後、篠山鉄道が西町から町の中央へ延長になると同時に(大正10年)「城東自動車株式会社」が起り、篠山、大芋間の旅客運輸にあたったが、その直後「福住商事株式会社自動車部」が福住、篠山間の営業を始め、続いて弁天、古市、今田方面へ区域を延長するに及び、城東自動車もまた篠山、弁天間の運輸を開始し、ここに篠山鉄道と2自動車会社が競争の形となること2年半、この問更に「篠山運輸自動車株式会社」が起り、貨切と貨物の営業を開始したが、遂に大正14年7月、前記城東、福住の両自動車は合併して「篠山自動車株式会社」を創立、次いで篠山運輸自動車も買収せられて(大正15年)ここに統一した。
この年(大正15年6月)別に又「篠園自動車株式会社」が出来、郡内の貨切営業を開始、ついで昭和2年9月12日より篠山鉄道もまた乗合自動車運輸をはじめ、昭和3年12月には更に「摂丹自動車株式会社」が創立して、篠山、三田間の直通運転を開始した。
一方、篠山自動車は篠山、園部間をはじめ、郡内全般に路線を拡張、営業を続け、省営自動車開通後は主として郡西方面の交通にあたっていた。
 
省営自動車(現在国鉄バス)
昭和8年に至り、しばしば新設確定線となりながら、又しても立消えの姿となっていた園篠鉄道の代償として、省営園篠自動車の設置が確定し、翌9年、下河原町西端に営業所と「本篠山駅」を設け、3月28日、篠山駅(弁天、今の篠山口)篠山、福住、原山口間(21キロ)の営業を開始した。当時の車輛は中型5輛、4噸トラック2輛、鉄道に代るに自動車となり、形こそ変ったが、40年来の園篠鉄道に対する郡民の希望が実現したことは、交通史上特筆すべきことであった。
その年(昭和9年)7月11日、原山口より更に園部まで(15キロ)が開通し、名実共に園篠自動車となり、昭和15年11月には大芋線(細工所-大芋4キロ)が開通した。
昭和22年5月15日「省営」が「国営」となり、昭和25年4月1日「日本国有鉄道近畿篠山自動車営業所」という現在の名称に変った。(略称、国鉄バス)
昭和24年9月15日に京口橋、福住間(南線12キロ)が、昭和26年4月11日に篠山口、味間奥間(4キロ)が、同5月5日に八上新、後川間(8キロ)が、同27年1月25日には城北口、瀬利間が開通して愈々便利になった。
昭和30年1月現在、国鉄自動車の車輛数は大型12、中型3、計15輛、外にトラック1輛である。
 
神姫自動車
省営自動車(昭和9年3月開通)が弁天(今の篠山口)篠山間の外は専ら郡東方面に活躍しているのに対し、主として郡西方面(篠山‐追入。大山‐本郷。篠山‐今田)に路線を張っていた篠山自動車会社を、昭和18年5月1日吸収合併して、新たに出来たのが「神姫合同自動車株式会社篠山営業所」である。(続いて同年7月1日摂丹自動車会社をも合併)篠山町呉服町に営業所を置き、従来の路線の外、其の後国鉄篠山線の開通によって(昭和19年3月)併行線となるため、一時休止していた省営自動車に代って、昭和19年11月(実際は4月から)篠山、篠山口間の運転を開始、まもなく復活した省営自動車と共に、鉄道が去った後の篠山町の唯一の交通機関として現在に及んでいる。
更に、昭和25年4月には篠山、柏原間、昭和26年11月には草山、莵原間と木津、清水線、翌27年7月26日には篠山、神戸間の直通運転、同12月には立杭、釜屋線など、主として郡西部に路線を拡張、郡東部の国鉄バスと共に重要な交通網を形造っている。又、国鉄自動車と合同で、昭和28年8月11日より篠山経由の園部、西脇間直通急行バスの運転が開始された。(認可5月6日)
昭和30年1月現在、神姫自動車の車輛15(内2輛は観光車)外にタクシー4輛
昨今に至り自動車の利用状況は漸く戦前の状態に復し、特に貸切車の利用と婦人の乗車数が激増しつつあることは注目すべきことである。
 
多紀交通自動車
昭和27年10月、多紀交通株式会社が創設され、ハイヤー5輌を配して、多紀、有馬、氷上、加東、多可、川辺、豊能、船井の各郡下に活躍している。
 
丹波貨物自動車
貨物の輸送に対しては篠山自動車会社(大正14年合併創立)の外、個人経営によるものが多くあったが、戦時統制のため、昭和14年4月「多紀統制自動車株式会社」として統一された。それが更に多紀、氷上両郡を統合して、昭和18年に「丹波貨物自動車株式会社」を創設、東新町にその支社をおいて営業、今日に及んでいる。最初は貸切りだけであったが、昭和24年には小口扱いも開始した。
昭和30年1月現在の車輛72輌、内篠山支社に属するもの14輌、毎日の定期運行は、京阪神の外、福知山、綾部、舞鶴方面にも及んでいる。
 

このページの記事は「2004年トライやる・ウィーク」で篠山市立篠山中学校の2年生3名が作成したものです。

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